随伴現象Blog
タナカスの精神活動に付随して発生する表現現象、タナカスの精神活動自体が随伴現象なんですが。
2018年3月8日木曜日
自由意志について
哲学の古くからの問題に「決定論」と「自由意志」がある。これ自体は哲学をかじったことのある人間は誰でも遭遇する問題だと思うが、僕はこれをかなり早くから切り捨てた。「答え」が出ても出なくても現実は何一つ変わらない問題だと思ったからだ。最近、それを問う人を見かけたので、改めて整理して見た。今から「ラメーン」を食べるか「カレー」を食べるか?自分で決めた気がしようが、何者かに決められた気がしようが、現実はどっちかを喰う、しかないんだよ。だとしたら、「自由意志」なんて大層な名前で呼ぶのが間違い。これも「言葉」のいたずらに過ぎない。なんかやればなんか起きる、それだけのことだ。そこに意志があるかないかは結果に何の影響も及ぼさない。あんたは自分で自分の人生を選んだと感じているかい?実は「どっちでもいい」ということに気付いていない人が意外と多いかもしれない。自由意志はあるんだが「必要」はないのだ。
2017年11月30日木曜日
「我」とは
「理性=ことば」であると気付いた瞬間、哲学上の問題が一瞬でほぼ解消してしまう。
「我」とは何なのか?「コギト」は理性である。
ことばで考えているのだ。
「考えるな、感じるんだ」ってのはよくあるセリフだが、大体において、考えても答えが出ない時は、考えるのを止めるのが一番、だと経験則で知っている。
散歩したり、風呂に入る。そして寝る。(笑)
やせ我慢でも、嫌なことでも、笑ってりゃ大概のことはどうにでもなる。
「我」は「コギト」のみの存在ではない、爪の先から脳みその中までが「我」なのだ。
「ことば」に出来ること。それは経験を外部に取り出すことだ。
「ことば」に出来ること?価値判断?行動の選択?理性的に考えた行動が良い結果を生むとは限らない。
未来がどうなるか?などということは、誰にも分かりはしない。
かと言って感情に流されることが正しいわけでもない。
「正しく考えること」と「正しく感じること」、結果が同じならどっちでもいいじゃん。
「理性的に考える」事にも限界があろう。
所詮「ことば」なのだ。
「理性=ことば」は「我」の一部ではあるが全体ではないのだ。
「我」とは何なのか?「コギト」は理性である。
ことばで考えているのだ。
「考えるな、感じるんだ」ってのはよくあるセリフだが、大体において、考えても答えが出ない時は、考えるのを止めるのが一番、だと経験則で知っている。
散歩したり、風呂に入る。そして寝る。(笑)
やせ我慢でも、嫌なことでも、笑ってりゃ大概のことはどうにでもなる。
「我」は「コギト」のみの存在ではない、爪の先から脳みその中までが「我」なのだ。
「ことば」に出来ること。それは経験を外部に取り出すことだ。
「ことば」に出来ること?価値判断?行動の選択?理性的に考えた行動が良い結果を生むとは限らない。
未来がどうなるか?などということは、誰にも分かりはしない。
かと言って感情に流されることが正しいわけでもない。
「正しく考えること」と「正しく感じること」、結果が同じならどっちでもいいじゃん。
「理性的に考える」事にも限界があろう。
所詮「ことば」なのだ。
「理性=ことば」は「我」の一部ではあるが全体ではないのだ。
2017年11月26日日曜日
夢の中の「我」
夢を見ている時、夢の内容は自分でコントロール出来ない。
それどころか、夢の中でものを考えている時、そこに判断や選択というものはない。意志がないのに決断している。言って見れば自分自身が主人公である映画を見ているようなものだ。にも関わらずその主人公はわたし自身だと感じられる。
この感覚は一体何なのであろうか?
景色に関しては見たこともないような景色が現れる時もある。記憶に関してはわたし自身が経験した記憶に基づいてはいるが、現実の記憶とは微妙に違って、願望であったり、改変されている場合が多い。
一番極端な夢はSF映画(三文スペースオペラ)の主人公や推理小説の探偵を自分が務めている夢だ。(笑)
頭の中で創作活動をしている。意味わからん。確かに妄想癖はあるが。
そういう時は夢の中に知人は登場しないなぁ。(笑笑)
人によっては二人称や三人称の夢を見たりするのかしらん?
「夢」について語りたい訳ではない。
何が言いたいのかというと、「わたし」って何?って疑問。
「我思う故に我あり」と思う時の「我」と夢の中の「我」は同一人物なのか?
どっちも「わたし」なんだけどなんか違うような、、、
言葉の定義
そもそも意識は脳の活動、すなわち物理現象ではあるが、精神活動は脳単体で完結している訳では無い。そこには知識があり、身体の経験があり、外界からの刺激があり、様々な要因の積み重ねがあって意識としてアウトプットされてくる。であるならば、わたしの意識はわたし単体で存在している訳ではなく、言って見ればわたしの脳と外界との相互作用であるのだから厳密には自由意志はないとも言える。
自分の意志は決定されてはいないが、意志の決定がなされる際、それはわたしの自由意志のみの作用で行われている訳では無いのだ。つまり自由意志とは何か?という定義の問題だったのである。
自分の意志は決定されてはいないが、意志の決定がなされる際、それはわたしの自由意志のみの作用で行われている訳では無いのだ。つまり自由意志とは何か?という定義の問題だったのである。
2017年11月25日土曜日
意識は予め決まっているのか?
わたしは自分の意思は決定されていないと感じているが、そう感じるであろうことも決定されている、と仮定できなくもない。
一方、わたしに決定されていない自己選択可能な意思があると仮定すると、その意思は脳内の物理現象からは独立したものなか?
もしくは脳の一部には自己選択可能な意思という機能が含まれているのか?
しかし意識が脳内の物理現象の作用であるならば、当然意識は物理現象そのものということになり、そこには決定されていない意思など存在できない様にも思われる。
一方、わたしに決定されていない自己選択可能な意思があると仮定すると、その意思は脳内の物理現象からは独立したものなか?
もしくは脳の一部には自己選択可能な意思という機能が含まれているのか?
しかし意識が脳内の物理現象の作用であるならば、当然意識は物理現象そのものということになり、そこには決定されていない意思など存在できない様にも思われる。
2017年11月19日日曜日
いじめの構造
考えるきっかけになったのは、
あるネット上で、ある生徒の、いじめられる側にも問題がある、という発言を目にしたからです。
その子がいうには、なんでいじめられる人はいじめられないようにする努力をしないのか、私はしている。
というものです。どう思います?まじで寒気がしました。
別にその子が間違っているから、という訳ではありません。
いじめられないようにする努力
どう考えれば良いか、言葉を失ってしまいました。
そんなことをしなくちゃいけない自分になんの疑問も持っていない状況、を恐ろしく思うのです。
現代のいじめはどうなっているのか?
とういうところからの疑問です。
いじめをやめましょう。という教育は当然してるでしょう、こんな時代だし。
どんなことしてるかは、全く知りません。
いじめは良くない、やめましょう、って生徒で話し合いでもさせてるんですかね?
いじめられる子の気持ちを考えましょう、とかって。
不倫は良くない、やめましょう。(笑)
問題を解決する時は
何が起きているのか?
なぜ起きるのか?
どうすれば防げるのか?
これしかないですよね。
で、学校の現場でその取り組みは行われていないのか?と疑問に思った訳です。
これだけシンプルに分解できるのに、
その認識がないとすれば
もう学校なんか行く方が害悪な気がしてきました。
実際カミさんはそう言ってますが。
つーか、いじめ対策をしている高学歴の方々はそんなこともわからんのですか?
相変わらず一部の現場が単独で頑張ってるだけなんですかね。
まず何が起きているのか?ですが
「いじめ」は起きています。日常的に。
最近は力の暴力は少なくなったのでしょうね。
その代わり、より陰湿になり、言葉の暴力(直接、間接)やシカト、をするようになったんですね。
方法はなんでも良いんですが
要は、その人が傷つく、ことが目的ですね。
その点は今も昔も同じです。
怪我しない程度であれば、そっちの方がマシかもしれません。
陰湿ないじめの困ったところは、
「頭の良い人達が、自覚のないままにやった方が効率が良い」というところです。
効率があまりにも良いから、あっというまに「死」にまで追いやるんです。
なんでいじめをするのかは、
「ストレス解消」(自覚はあったりなかったり)
シンプルすぎて悲しいくらいです。
それ以外の理由思い付きます?
いじめにあって死のうとしてる人に教えてあげたい。あなたは他人のストレス解消のために死ぬの?って
バカバカしくて死のうと思わなくなると思うなぁ。
次にいじめの構造なんですが
いじめは、多数が一人(少数)を傷付けるという形態をとります。例外なく。(それがいじめの定義なんだけどさ)
なんでそうなるかは農耕民族の悲しい性でしょう。
1対1はいじめじゃなくてケンカです。欧米には決闘文化がありますね。
ちょっと昔、いじめが問題化する前はいじめはケンカの一種だと思われていたのではないでしょうか?
ケンカに負けて死ぬ人はいません。むしろ殺す側になる。(ルール違反ですが)
つーかケンカした後は前より仲良くなる場合すらある。対等な対立は健全なのね。
で誰がいじめの対象になるのか、ここが問題。
誰でもいいんです。なにせストレス解消が目的なんですから。
この「誰でもいい」という部分が「いじめ」の最大の問題点です。
いじめられ易いタイプはあります。暗かったり、容姿だったり、成績だったり。
だけど全部本人の責任じゃない部分なのです。全部単なる個性なのです。
最近では「モテる」人がいじめに合うらしいですよ。
同調圧力っていうやつでしょうか。
とにかくいじめの対象ってのは、個性のある人に向かうんです。
いじめられなくなる努力、ってのは、個性を無くす努力、ってことなんですね。
その人がいじめる側に取り込まれるか、いなくなってしまうとどうなるでしょう。
なんと集団というのはまた次のターゲットを探し出すんですね。
鋭い感覚で「個性」を探し出すのです。誰だっていいんですから。
だからますます皆いじめられないためには個性を出さない自己主張しないというふうになっていきます。
特に中学生あたりの年代は、自我が芽生えてくる。異性が気になり始める。大人が信用できない。受験を意識する。
とにかくストレスが溜まり易いし解消法もまだわからない人達が一箇所に集められて狭い空間にいる。といじめが起きるようになっているのです。
軍隊も必ずいじめがあるみたいですよ。
だから俺は集団というものが嫌いなんです。(俺の場合ちょっと病的ですが)
今のところの考察はこんなもんです。
まとめると
(特に思春期の)集団は自分達のストレス解消のために集団の中にスケープゴートを(わざわざ)作り出して
いじめを行うものだ。
って、当たり前っちゃ当たり前の話なんですが、
あんた達は(幼稚な)集団と付き合うのが仕事なんだから、先生はみんなそれを前提にしてもらわなきゃ困る、ってことです。
さて、どうすればいいのか?
というのが今後の考察です。
2017年11月7日火曜日
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